早いなあ。
まさに、光陰やの如し。
18年くらい離れてしまうと、日本についての知識が、かなり時代遅れになってきています。
日本み一時帰国の際も、電車の切符の買い方とか、コンビニでのキャッシュレスの浸透具合とか、新しい事ばかりですっかりおのぼりさんです。
夫(ミャンマー人)曰く、「ワタシは日本語が話せるだけで、日本の事はあまり知らない。つまりガイドとしては役に立たない」との事。
でも日本語は、日本語を学んだ外国人に比べたら、メチャクチャ上手いと思うんやけどなあ。ネイティブやし。
それを言い出したら、夫(ミャンマー人)だって、ミャンマーを離れて20年なんやから、ミャンマー語が話せるだけで、最近のミャンマーの事はあまり知らないと思うんやけどなあ。
まあ、それは置いといて。
夫の言い分も、あながち100%間違いではないと思うフシもあるのです。
と、言いますのは、日本の中では、閉鎖的と言う事で有名な、京都の出身なのです。
生まれも育ちも京都の、はんなり京都人。
ロンドンで生活するようになって、日本の様々な地方の方々と知り合いになりましたが、京都に居た時には、知り合いは主に京都人、もしくは関西人ばかり。
行動範囲だって狭いです。
京都はコンパクトながら、なんでもそろっている街なので、出かけるといっても、せいぜい、大阪、滋賀、兵庫くらい。
そしてどうやら、京都人というのは、全国的に見て、かなり特殊な生態をもっているらしいのですね。
どうやら京都の外から見たら、京都の人というのは「いけず」らしいのですよ。
京都市には大学が多く、学生の街ともいわれます。
なので、京都の人は学生さんには優しいのですが、一度学校を卒業して、京都で働き始めたら、態度が急変するらしい。
それ以外でも、全国規模の大企業の社員さんが、京都に転勤で来て住むようになった場合なども、けっこうツライらしいですね。
なぜここで、ワタシの書き方が「らしい」と伝聞形態なのかと申しますと、それは、伝聞だからです。
京都で生まれて育ったワタシとしては、そんな事を感じた事はないわけです。
しばらく京都を離れた後に、里帰りしても、京都の人達は、ワタシにとっては、まったくもって普通です。
でも、京都外の出身で京都に移り住んだ皆さんは、口を揃えて言うのです。
京都の人は、「いけず」やと。
でもね、ワタシが思うに、京都の人は、よそ者だから「いけず」をしてるんじゃないと思うんですよ。
学生さんを特別扱いしていただけで、学校を卒業して働き始めた人や転勤で来た人なんかは、普通に接しているだけなんだと思うんです。
つまり、京都人が普通に接すると、それは「いけず」なわけなんですよね。
でも、京都で生まれて育った人間にとっては、それがずっと普通だったし、自分自身も、自然と人に対してそうやって接するようになっているので、まあ、ちょっと「いけず」かなあ、と思わない事はないにしても、まあ、「そんなモノ」なのですよ。
でも、ロンドンに来て、京都以外の日本人の方と知り合って一緒に働いたりするようになって、「もしかしてワタシって、標準的な日本人から少しずれているのでは?」と、自覚するようになりました。
そして長年、京都以外の日本人の方を観察した結果、京都の外で日本人と接する時の自分と、京都に里帰りした時の自分と、二つのバージョンができてきました。
なのでワタシは、京都人の気持ちも分かるけど、京都人が「いけず」やと文句を言う人の気持ちも分からない事もない。
でもやっぱり、芯は京都人なので、文句を言う人の気持ちが「分かる」とは断言できませんが。
ところで、英国人のものの言い方って、京都人と、とても良く似てるんですよ。
ものをハッキリと言わないところとか、婉曲表現を使うところとか、二重否定を使うところとか。
あと、婉曲表現で言われた言葉の、実際の意味する所、っていうのを考えた時は、限りなく京都人に近い言葉の使い方をしていると思う。
そして、京都以外の日本人というか、関東の人のものの言い方は、むしろ米国人に似てるという印象がありますね。
誤解を招かないように、簡潔でハッキリ。
合理的極まりない。
ワタシのように、京都とか英国のもの言い方に慣れた人間にとっては、合理的過ぎて愛想がないとも感じられてしまいます。
でもまあ、今は世界はグローバリズム。
多国籍の人々のコミュニケーションを円滑にするため、日本では「やさしい日本語」が、英語圏では「Simple English」が推奨されています。
その流れでは、文化的背景の共有を前提とした、「いけず」な京都人は、だんだんと時代遅れになっていくのでしょうね。
ちょっと寂しいかなあ。
京都人は、やっぱり「いけず」でないと。
そこも含めて、文化遺産として登録して欲しいと思うのです。
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