今年のワタシは、今までになく、瞑想に夢中です。
瞑想とは、「何も考えず、心を無にして一定時間を過ごす」ことであり、それは畢竟、「究極のダラダラ」といえるのではないでしょうか。
今年は「真剣にダラダラする」と心に決めたワタシとしては、とても気になるモノなのです。
さて、瞑想には色々有ります。
座り瞑想(座禅ともいう?)、歩き瞑想。
そして、食べ瞑想。
この食べ瞑想っていうのはが、なかなか難しい。
食べて美味しい!と思うのはOK。
でも、それでおしまいにいないといけない。
「美味しい」ということを認識して、それでおしまい。
それ以上のジャッジメントをしてはいけないのです。
つまり、これはどうやって味付けしてるんやろう?
とか考えながら食べるのはダメらしい。
なぜなら、どうやって味付けしてるとか考えるのは、すなわち、「美味しい」と思ったものを、自分で料理する時に再現しようと目論んでいるわけで、それは「欲」らしいのです。
そういった「欲」を排除して、中立・公平な姿勢で食べ物に対峙しなければならないのです。
例えば、自腹で高いお金を払って高級レストランで食事したのに、思ったより美味しくなかったら、ガッカリしますよね。
はりきって手の込んだ料理を作った時、せっかく一生懸命作ったのに自分の思った通りに仕上がらなかったらガッカリしますよね。
なぜガッカリするかというと、食べる前に何らかの期待値があるからです。
お金を払ったり、自分で作ったりすると、そのお金や努力に見合う味を期待してしまうのです。
その期待は、すなわち「欲」なのです。
なので僧侶は、自分でお金を払う事なく、自分で料理する事なく、寄付されたものを何でも受け入れて食べる必要があるのです。
それは、食べ物に対して何らかの期待も持たず、それが美味しくても、それほど美味しくなくても、ジャッジする事なく、ただ、食べ物をそのものを認識し、食べるという行為に付随する一連の動作を認識して行うためです。
それって、なかなか難しいと思うのですよ。
ワタシにはできないなあ。
レストランで美味しいもの食べたら、何が入ってるのか、どうやって調理したのか、気になります。機会があれば、家で似たようなものを作りたいな〜って考えてしまうもん。
(食)欲にまみれたワタシには、食べ瞑想は、当分無理そうですね。
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